2022年11月9日水曜日

モヤシンス

ヒヤシンスは日本語では「冷やす」の語感に似ており、植物自体も秋植え〜春開花ということもあり、寒いイメージがあるかと思う。

よってその正反対の性格を持つ植物用に「モヤシンス」を勝手に発表しておく。

この語感は「燃やす」を連想させ熱い花、または暑い季節の花である。
ちょっと残念なのは食用の「もやし」も連想されるため、若干ヒョロヒョロと、か弱い印象も含んでしまう点である。

すでに世界中の花に名前は付いてしまっていて、今更「モヤシンス」が採用されることはないだろうが書くだけ書いておこう^^

とてつもなくどうでも良い話なので、軽く読み飛ばしていただければと願ってやまない次第である。

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一応Googleで「モヤシンス」を検索してみたら、意外とヒットがあって驚いた。
みなさんいいセンスをお持ちです!
というか私のアイデアも誰でも思いつくような拙いものだったということで、なおさらどうとでも取り扱ってください、といった感じです。。

2022年10月30日日曜日

親が思う、子供の成長の驚きの記録

親が思う、子供の成長の驚きの瞬間をメモとして記録しておく。
(何かの役に立つだろうし、専門家であればネット情報を網羅して役立ててくれるだろう^^)

【含み笑い】
子供(赤ん坊)のストレートな笑いはいいものである。親としてはそれを見聞きするだけで至高であろう。陰りのない生命としての「喜」である。

驚きの瞬間は、子供が幼稚園に行き始めてしばらく経ってからであった。(ちゃんと記録しておけばよかったが、年少さん中盤〜後半(3〜4才)か年中さん前半(4〜5才)くらいだったと思う。機会があれば幼稚園の先生とも話をしたかったが、機会がなくて話をしないままだった。残念。)

ある日、いつものように子供を笑わせようとして面白いことを言ったのだが、なんとその時の反応が、含み笑いだったのである!!!「フッ」というような鼻で笑う感じの笑いであった。
それまでのストレートな笑いと異なる、大人を思わせる含み笑いに驚愕したものである。
含み笑いとは、現実世界の「打てば鳴る」というストレートな作用・反作用の領域を抜け出して、心の中でいわば仮想世界上で、つまり自分の頭の中でイマジネーションを駆使して発揮されるものである。(科学的にはまた違う解釈が出来上がっているかもしれないが。まぁ「心の形成」という点では、子を持ったりすると自分事として日常的に考察するわけであるから、いわば全ての人がその一端を担う当事者であるのだが。よってこの解釈も新境地として開拓できれば良いだろう。(もしくは当の昔から研究され尽くした、何の新しみもない領域かもしれないが。。^^))

このような高度な、大人となんら遜色のない反応を見せたことに、我が子は天才かと思ったのである!(なんだかただの親バカブログになってきた^^)

【足し算】
年長さん(5〜6才)頃に、子供が「たす」とか「ひく」ことに興味を持ち始めたので「箱の中に1つのチョコと、もう一つのチョコがあって、箱の中の全部を数えると2つでしょ」的な、皆さんがやるようなやり方で、なんとなく足し算を教えてみた。
そこから「1+1」など、所謂「抽象的な」記法に持っていくのが常套手段だと思うのだが、我が子にもそうしてみた。
それからは「2+2」とか「3+5」とか応用していったのだが、概念を覚えた子供は私が問題を出すと(なぜか私には背を向けて)指を折って足し算して、私に答えを教えてくれるようになった。(「抽象化」とは正に人類が獲得した最強ツールである!)
それからしばらく成長して、その時の事を我が子は私に「最初は意味が分からなかったけど、ずっと考えてたら分かって、なんだか脳ミソが「ブワッ」と膨れた感じがした」と教えてくれた^^
私はそれを聞いた時は勿論だが、それを思い出す時はいつでも何故か幸福に浸れるのである^^

これは正に「概念を理解した時の至上の喜び」を我が子が表してくれたものであって、私も含めて大人全員に多かれ少なかれ存在した瞬間であって、この瞬間を大切にしたいと思ったのである。

※水を指すような事を追記して申し訳ないが、それから小学校一年生になって、算数の授業でも足し算・引き算をやり始めたのだが、例えば「7+4」は「4から7に3をあげれば10になって、4は3あげたから1になるから、合わせて11」というような、「やりやすい足し算」的なものも一年生でやり始めたのだが、そこから途端にできてたはずの足し算も逆にできなくなってしまったToT(計算がめちゃくちゃになってしまった)

無論これは、その言わんとしている事(大きく見ればやはり概念)を理解できなかった、というだけの話かもしれない。
「これはいかん」と思って、教科書の「概念」を教え直して事なきを得たのであるが、初めて我が子を現代教育の現場に投じたものとして、何か悶々としたものを感じたものである。
落ち着いて考えると、これは「概念を教える時は、生兵法では逆に怪我をする」とでもいうべき類の話だろう。
概念を教える時はちゃんと教え切るべきだろうし、一方では学校はカリキュラムを推し進めなければならないだろうし、というところでのジレンマであろう。(おそらく昔からあるジレンマであろう。かといって「授業についていけない人は塾行ってね」というのも根本的に違うだろう。)
※決して現場を批判するものではない。

現場でのプロパティとしては、更に「本人のやる気」が付け加わってくる訳であるから、より複雑なのだろうな。(無論本人が聞く耳を持たないのであれば、教える側も嫌になるだろう。(現代の教育現場ではそれは明示的には言えない?のだろうが。そうすると「ちゃんと教えましたけど」という、ウワベだけの論争になっていく、という。。)

話が飛躍してしまったが、純粋に「知」「智慧」を求める本道としては、時代に関わらず、現場に関わらず、正に純粋な抽象概念の獲得ができれば良いのだろう。(数多の時代的影響、現場的影響による悪条件でしか教育を受けられなかったのに関わらず、立派に学問を大成したした人の話を聞くと泣けてくる。裏を返すと、本道においては時代的影響や現場的影響は些末な事柄なのである。(よく言われる通り、他と比較していてはキリがない。))






2021年2月11日木曜日

言葉の発生について

子供が「なんで〇〇は〇〇って言うのか?」と聞くことがある。

何かで、お母さんであれば太陽の「カッカッ」とかから
「カァ」さんになったとか知っていたので説明できるが
「なんで『なんで』は『なんで』って言うの?」などの
質問になってくると分からなくなってくる。

母さんの「カッカッ」は擬態語・擬音語をルーツとする
言葉群の分類とかになるのだろうか。
(言葉の語源を研究する専門家ではないので詳しいことは
 分からないが。)

「なんで『なんで』は『なんで』って言うの?」という問いに
分からないなりにひねり出した答えは
「誰かが何かを誰か別の人に聞く時に『なに』という音を
発していて、それを見聞きした人が『なるほど、何かを人に聞く時は
こう言えば良いのだな』と思ってその人も『なに』を使うようになった。
またそれを聞いた人が使うようになって、気がついたらみんなが
『なに』を使うようになったから、『なんで』は『なんで』って言う
のである。」
ということである。

つまり自然発生+デファクトスタンダード化ルーツ語群である。

デファクトスタンダード化であれば、例えば誰かが「今日から
りんごは『あああ』と呼ぶことにする」と言って、もしも
日本全国民の人をりんごのことを『あああ』と言わせることに
成功したのだとしたらりんごの新しい呼び方は『あああ』に変更に
なるのであろう。

自然発生については、それではそのさらに大本は何か?となってくる
のであるが、ルーツをたどれるものもあるだろうし、いろいろなルーツが
あって「これだ」というものには到達できなかったりと、
多分にデファクトスタンダードの要素を持っていると思われるのである。

単語に限らず、それこそ文法に至っては、ルーツを辿るとかの話ではなくて
「大和民族は自然にSVOの文法になっていった」とかになるわけである。

これは広く言ってしまえば有機体の自己完結性で出来上がった、と言える。
例えば人とか動物になぜ足があるか?についても理由は色々と考えられて
ルーツを辿る研究もあるのだが、言葉も人という種別が有機体として
人から人へ継承して作っていったものの一部なのである。

よく言われる通り子供の質問とは本質である。

2021年2月10日水曜日

挨拶も会話ならば

挨拶も会話のうちというならば、
私はネコと会話できてるかもしれない。

意思疎通、コミュニケーションも
会話のうちというならば、
私はネコと会話できてるかもしれない。

2020年10月22日木曜日

いきなり「ミニバームロール」について

突然だがブルボンのお菓子「ミニバームロール」について。

子供の頃から何気なく食べていたので、意識にさえ
のぼらなかったが、最近久しぶりに食べたら、
このお菓子は一体なんなんだろうか?と急に
意識してしまった。

何菓子なのだろうか?
和菓子なのだろうか?洋菓子なのだろうか?
周りを覆っているのはチョコなのだろうか?
いや、「ホワイトクリーム」とあり、原材料にも
チョコは使われていない。なんとも「和的」な
「昭和的」なものと言える。

まぁうまいからいいか、という結論。
現代の子供たちも無意識のうちから食べて、
大人になってから、ふと「そういえば、この
お菓子はなんなんだ?」と思ってくれれば
それで良いと思う。


2020年10月18日日曜日

炭焼き炭治郎

鬼滅の刃を昔話風にしてみました。
百年後とかに、桃太郎、浦島太郎、金太郎に並ぶ
四大昔話になってくれればと思います。

2020年6月29日月曜日

敢えて知るべからず

敢えて知るべからず。
またそれをもってよしとなす。

死に行く人を助けんとして
自らの血を繋げんとす。

知れば無駄であることを知る。
知らず。
ただ自己の範疇の可能性のみぞ知る。

ーーー
この瞬間について語ろう。
無論、語れぬのだが。
語れぬ瞬間であるから。
語れぬ瞬間であるが、ではこう考えよう。
つまり想起。
想起とは何か。
頭に浮かんだもの。
その浮かんだものは、まず事実とする立場。
そしていろんな哲学が言われているが、
自分の頭に正に浮かんだ事実は事実ということ。
このへんはデカルトに譲る。(疑う側からだが。)

証明好きが証明すれば良いが、証明の複雑度が
高まるということは、それを証明するための自由度も
輪をかけて高めなければ証明できないということ。

想起を前提とする。
想起があれば、それが書ける。
文字なり、音楽なり、絵画なり、5次元的な表現なり。
私が他で書いて、それさえできればこういった分野の垣根さえ
飛び越えられるのに、と常々思ってるものがあって、
それは「意識を直接伝える機構」なのである。
つまり、「この」感動を「そのまま」つまり、5感に直接
その通りに伝える機構。そして5感に直接電気信号を伝えるだけでは
大切な芯は伝わらないので、つまり感情を直接伝えるものである。
ここで個体差の問題が出てきて、5感に直接電気を送ればいいものでは
ない。脳に及んで、需要体として、その感動を需要しうる許容量を
持っているか?ということに及ぶ。(ここらへんから、許容できなくとも
絶えず先達の達し得た最高の感情を常に与えていれば、自ずと許容体も
拡張されて、いつしか許容しうるものへ成長する、とか研究しだす
人も出てこよう。)

想起が前提できたので少し安心してものが書ける。
変な夢を見た。
例えば一番大切なものが滅する夢を。