2024年4月28日日曜日

2023年2月21日火曜日

納豆道

日頃我々は3食のご飯を頂いている訳だが、そこには日常食ならではの「作法」のようなものがある。
主婦のベストセラーになってたりするが、キーワードとしては「簡単に」「手間要らず」「後片付けも簡単」といったところだろうか。

つまり日常食の求められる特性としては以下のような点が考えられる。
・いかに準備・調理・配膳を早く簡単にできるか。
・おいしいか
※ただし、もちろん手間をかければかけるほど美味しくはできるのであろうが、日常食ではそこまで大きなパラメータではない。(もちろん最低基準を満たしていればであるが^^。)手間とのトレードオフになってくるが、「簡単で美味しい食べ物の作り方」の知識があればああるほど、つまり情報があればあるほど現代の最善を提供できるため、こういった「情報」に価値が出てきて需要も生まれるというものである。

また、現代では以下も追加しておこう。
・いかにゴミを少なくし、分別しやすいか。

主にこれらの観点で今回は、日常食として納豆と如何に相対するかについて考察してみよう。

ーーー(いきなり余談)ーーー
「日本の食」つまり日本人の食(主に日常食)に対する考察になってくるのだが、「神は細部に宿る」と言われる通り、この「食」という点だけを見てもすでに日本人らしさが伝わってくるだろう。
では、その上層は何かというと、例えば「もったいない」意識とかがその一つとして挙げられるだろうか?
もったいないという意識は全方位にわたっていて、物理的なものに対する勿体無さから始まって、時間とか態度とかあらゆる抽象概念にも及ぶのである。

この辺の階層化も解き明かしているのだが、そのまとめは別の機会としよう。
この階層化を全世界に適用すると各地域の特性も階層的に見えてくる。
ひいては現在の人類の最上位にある共通層も分かるのである。
ーーー(余談終わり)ーーー

日常食として如何に納豆をいただくか記載する。
あくまで個人としてたかだか数十年くらいしか接していないため、これがベストという訳ではなく、より良い接し方があるかと思うので日々改善・精進できればと思う。

また、今回は個人的理由で大変申し訳ないが、納豆は四角い白い容器のもの(よく3個パックで売られてるもの)とする。

【準備】
・納豆容器の蓋をあける。
・蓋を取り外す。
 後述する混ぜた後の処理時に操作しやすくするため。
・醤油とカラシを取りいだす。
・フィルムを剥がし、蓋へくっつける。
 この時、フィルムを対角線の角を中心に谷折り(折り紙で言うと鶴を折る時の一手目)にしておくと、次の醤油・カラシの格納先として便利である。…部品Aとする。
 観点:ベタついたフィルムを最短距離で固定化し、ベタつきに煩わされなくて済むため。
・カラシを開ける。
 この時、開けたプラスチックは完全に引きちぎった方が良い。そうしないと次のカラシを絞り出す時にぶら下がったプラスチックについてしまい、もったいないからである。
 ここは手間 < 勿体無いの関係が成り立つため、手間をかける。
・カラシを納豆へかける。
 できるだけまんべんなく。
 カラシのプラスチックを奥からちゃんと絞り切る。
 その後、プラスチックを両側から挟んで、空気を入れ、出口を下にして重力でカラシが下に貯まるようにして、溜まったところで勢いよくカラシ容器を潰す。そうすると残ったカラシも取り出せる。(どうしても勿体無い人は容器を吸っても良い)
 観点:無駄を出さない、かつ自治体に迷惑をかけない。
・カラシ容器を納豆容器の蓋(部品A)に格納する。
 観点:最短距離で格納可能。他の箇所を汚さずに済む。
・醤油も同様に容器を開け、納豆へかけ、絞り出して、部品Aに格納。
・納豆を箸で混ぜる。
 この時、容器を箸で突き破ったり、吸ったりしないように注意。溝ができるとタレが奥に入ってしまい、勿体無いかつ洗う手間が増えるため。
・納豆をご飯にかける。
 納豆とタレがご飯のお椀につかないように。
・納豆容器からタレを絡めとる。
 まずは容器底面のタレを箸で円を描くようにするとタレが箸にまとまってくれる。
 次にそのまとまりを箸で(ある程度)勢いよく持ち上げると、残存した薄く広がったタレも絡めとることが可能。(なんか科学的にこのくっつく現象の呼び方がありそう。粘性があるものが、ゆっくりだと流れていくが、高速だと剥がれる力よりもくっつく(とどまる)力の方がまさって移動物体に追随する現象。何現象というのだろう?とりあえず現象Bまたは手法Bとしておく。) これを素早く数回〜数十回繰り返し底面のタレを絡めとる。
 ※勢いよく持ち上げすぎて、容器外やそれこそ天井とかに吹っ飛ばさないように注意。
 次にまとまったタレ集団を容器側面に持っていき、側面も同様に手法Bを駆使してタレをまとめていく。4側面分を繰り返す。
・納豆容器から絡め取ったタレをご飯にかけた納豆の上へ置く。
 この時もご飯茶碗にくっつかないように。
・箸はご飯に格納する(さす)。
 若干行儀が良くないが、箸についた粘着物を茶碗に付けないためである。自分一人だけで「作ってすぐ食べる」場合だけ実施していただければと思います。あ、でも家族で食べる場合も、納豆は一人一パックの場合が多いかもしれないので、大丈夫かもしれませんね。ここは臨機応変に対応願います。
・納豆容器と部品Aを水洗いする。
 手法Bのおかげでぬめりはすぐ取れる。(時短)
・納豆容器と部品Aはお住まいの市区町村の規定に従いお捨てください。

【食事】
・中心の納豆から食べやすい量を側面側のご飯へ移動する。
・納豆がこぼれず、食べやすい量のご飯を納豆と一緒に取り出す。
 ※ご飯を箸で「切る」感覚
・ありがたく頂く。
・上記3ステップを繰り返す。
 途中でおかずを食べたり、味噌汁とかお茶とか水とかを飲んだりとかは臨機応変に対応願います。
※もしも納豆やタレがご飯茶碗について、どうしても勿体無い場合
 味噌汁をご飯茶碗に入れれば、罪の意識も薄らぎます。
 (プロはそれを見越して、味噌汁とかスープは配膳時には別容器で準備せず、食後の飲み物として食べ終わったご飯茶碗に直接入れて飲みます。)
 特典としてこれにより箸まで綺麗になります。
 (プチ余談)思えば私の祖母が食後に必ずご飯茶碗でお茶を飲んでおり、子供の頃は若干「それって美味しくなくない?」と思ったりしたものだが、気付いたら私も同じような境地に達した訳で、人とは奥ゆかしいものである。

【後片付け】
・箸とご飯茶碗を洗う。
 準備と食事のおかげで汚れの少ない洗い物になり、時短や環境貢献の効果が得られる。


ーーー
最近気づいた点があって、【準備】は、もしかするとこちらの方が良いかもしれない。
もちろん上記でも長い経験をもとに、それなりの極地には達しているのだが、以下の手順の方が時短効果が大きいかも。

【準備手順その2】
・蓋をあける。
・蓋は切り離さず、そのまま。
 当初の手順と比べて時短
・醤油とカラシを取りいだす。
・フィルムを剥がし、蓋へくっつける。
・納豆をご飯にかける。
 できる限り納豆のかたまり(ブロック)を崩さないよう、かつ粘菌(※)が容器に残存しないように。
 この時点で納豆をご飯にかけてしまう。水分の少ない納豆は粘菌も広がらないので、こっちの方が残存も少なく、かつかなりの時短になる。
 ここでも念の為、手法Bを用いて残留した粘菌を取っておくのも良い。
 ※…ここでいう粘菌は「粘着性のある納豆菌」という広義の意味で粘菌と呼んでいる。もしも「粘菌」という用語が狭義の(固有名詞の)粘菌という意味しか持ち得ないのであれば、用法が間違えになりますが、ご了承ください。(狭義の粘菌は、菌好きであればご存知かと思いますが、森とかで黄色くてジュワジュワと周りに広がっていく菌ですね。よく早送り動画があったりします。)
・カラシを開ける。
・カラシをご飯茶碗の納豆へかける。
・カラシ容器を納豆容器の蓋(部品A)に格納する。
・醤油も同様に容器を開け、納豆へかけ、絞り出して、部品Aに格納。
・納豆を箸で混ぜる。
 この時に最初の手順と比べると、ご飯茶碗にくっつく確率が高くなるのが弱点。
 ただし【食事】手順の通り、味噌汁やスープをご飯茶碗で飲む前提であれば気にすることはない。
 また、ご飯上でかき混ぜるので、最初の手順と比較して豪快にはかき混ぜできない。
・箸はご飯に格納する(さす)。
・納豆容器と部品Aを水洗いする。
・納豆容器と部品Aはお住まいの市区町村の規定に従いお捨てください。

いかがだろうか?
時間と技術があれば、最初の手順と手順その2のどちらが、納豆容器への残存量が多いか確かめたいところである。

また、容器自体もチューブ状のものだったり、タレも容器と一体になったものがあったり、各メーカーさんも日々努力されておられ感謝しております。
いつの日か、生あるうちに、納豆の究極形態をこのまなこでまざまざと見届けた上で眠りにつきたいものである。

ーーー
なお、本「納豆道」はあくまでも自己修養・自己鍛錬のためのものである。
(他の「道」と名のつくものと一緒ですね。)

ひけらかしたり、自慢したりする類のものではない。
また、周りに不快な思いをさせては本末転倒である。
よって極力「一人ご飯」時に実践するか、または本「納豆道」の主旨を腹の底から理解したもの同士で食事する場合に実践した方が良い。(集団で実践する場合、集団になるということは外部(オープンワールド)である場合が多いため、もちろん周りから好奇の目を呼び込まないよう注意すること。(本「納豆道」の主旨を腹の底から理解していれば、そんなことをするはずはないと思うが、念の為。))

もしも、本「納豆道」を十分に習得し、例えば他人が息をしているのをいちいち気にしないように、納豆道を空気の存在のように実践することができるならば、外部で実施しても良いだろう。(まずは家族との食事時に平静を保って練習した方が良い。)
ただし、いくら自分が「完璧だ!」と思っても、それを見るのは外部の人である。
いくら自分が「この場所は特定の人しかいない」と思っていても、外部である時点で常に「不特定多数」のフィールドと思っていなければならない。(ニュースで出てくる、たいていの犯罪の犯人はこの点で躓いている。それにしても学習のないことだ^^)

結論としては、外部で実践する場は、まぁほとんど皆無であろう、ということだった。

逆に言うと、大切なのは主旨であり、それさえ腹の底から理解できれば納豆道でも柔道でも弓道でも花道でも茶道でもなんでも良いのである。

この主旨を重々理解し日々精進されたし。

ーーー
この「主旨」の根底にある普遍性を基に、他のものへも適用可能である。
よってこれを僭越ながら「食事道」と呼ぶこととする。
(もしかすると他にも別の切り口からの食事道もあるかもしれないが、大切なのは主旨であるため呼称には拘らない。また、「主旨」が同じであれば、それこそ同じ呼び方で良い。)

これは、本「主旨」を各種食材・料理に適用した、全ての食材・料理の「道」の集合をまとめたものである。(プログラミングで言えば「スーパークラス」(親クラス))

今回は食事に関する切り口で「道」を見てきたが、その他の「道」とも共通する普遍性がある。
よってそれらをまとめたもの(スーパークラス)を「道」と呼ぶ。(既に周知の事実、または定義済みかもしれないが、もしも明確に定義されてなかった場合のために、ここに明確に定義しておく。)

いきなりこのような抽象から入ると訳が分からないだろう。
よって納豆道なり具体的な「道」の実践を通じて、または実践前後、実践中を通して「道とは何か?」を自分の頭と体で習得していかなければならない。(日々の生活、呼吸の一つ一つさえも道の実践の場と言われますね。)

道とはすぐそこにあるものだが、同時に遥か遠く、ゴールのない実践の場なのである。


2022年11月9日水曜日

モヤシンス

ヒヤシンスは日本語では「冷やす」の語感に似ており、植物自体も秋植え〜春開花ということもあり、寒いイメージがあるかと思う。

よってその正反対の性格を持つ植物用に「モヤシンス」を勝手に発表しておく。

この語感は「燃やす」を連想させ熱い花、または暑い季節の花である。
ちょっと残念なのは食用の「もやし」も連想されるため、若干ヒョロヒョロと、か弱い印象も含んでしまう点である。

すでに世界中の花に名前は付いてしまっていて、今更「モヤシンス」が採用されることはないだろうが書くだけ書いておこう^^

とてつもなくどうでも良い話なので、軽く読み飛ばしていただければと願ってやまない次第である。

ーーー
一応Googleで「モヤシンス」を検索してみたら、意外とヒットがあって驚いた。
みなさんいいセンスをお持ちです!
というか私のアイデアも誰でも思いつくような拙いものだったということで、なおさらどうとでも取り扱ってください、といった感じです。。

2022年10月30日日曜日

親が思う、子供の成長の驚きの記録

親が思う、子供の成長の驚きの瞬間をメモとして記録しておく。
(何かの役に立つだろうし、専門家であればネット情報を網羅して役立ててくれるだろう^^)

【含み笑い】
子供(赤ん坊)のストレートな笑いはいいものである。親としてはそれを見聞きするだけで至高であろう。陰りのない生命としての「喜」である。

驚きの瞬間は、子供が幼稚園に行き始めてしばらく経ってからであった。(ちゃんと記録しておけばよかったが、年少さん中盤〜後半(3〜4才)か年中さん前半(4〜5才)くらいだったと思う。機会があれば幼稚園の先生とも話をしたかったが、機会がなくて話をしないままだった。残念。)

ある日、いつものように子供を笑わせようとして面白いことを言ったのだが、なんとその時の反応が、含み笑いだったのである!!!「フッ」というような鼻で笑う感じの笑いであった。
それまでのストレートな笑いと異なる、大人を思わせる含み笑いに驚愕したものである。
含み笑いとは、現実世界の「打てば鳴る」というストレートな作用・反作用の領域を抜け出して、心の中でいわば仮想世界上で、つまり自分の頭の中でイマジネーションを駆使して発揮されるものである。(科学的にはまた違う解釈が出来上がっているかもしれないが。まぁ「心の形成」という点では、子を持ったりすると自分事として日常的に考察するわけであるから、いわば全ての人がその一端を担う当事者であるのだが。よってこの解釈も新境地として開拓できれば良いだろう。(もしくは当の昔から研究され尽くした、何の新しみもない領域かもしれないが。。^^))

このような高度な、大人となんら遜色のない反応を見せたことに、我が子は天才かと思ったのである!(なんだかただの親バカブログになってきた^^)

【足し算】
年長さん(5〜6才)頃に、子供が「たす」とか「ひく」ことに興味を持ち始めたので「箱の中に1つのチョコと、もう一つのチョコがあって、箱の中の全部を数えると2つでしょ」的な、皆さんがやるようなやり方で、なんとなく足し算を教えてみた。
そこから「1+1」など、所謂「抽象的な」記法に持っていくのが常套手段だと思うのだが、我が子にもそうしてみた。
それからは「2+2」とか「3+5」とか応用していったのだが、概念を覚えた子供は私が問題を出すと(なぜか私には背を向けて)指を折って足し算して、私に答えを教えてくれるようになった。(「抽象化」とは正に人類が獲得した最強ツールである!)
それからしばらく成長して、その時の事を我が子は私に「最初は意味が分からなかったけど、ずっと考えてたら分かって、なんだか脳ミソが「ブワッ」と膨れた感じがした」と教えてくれた^^
私はそれを聞いた時は勿論だが、それを思い出す時はいつでも何故か幸福に浸れるのである^^

これは正に「概念を理解した時の至上の喜び」を我が子が表してくれたものであって、私も含めて大人全員に多かれ少なかれ存在した瞬間であって、この瞬間を大切にしたいと思ったのである。

※水を指すような事を追記して申し訳ないが、それから小学校一年生になって、算数の授業でも足し算・引き算をやり始めたのだが、例えば「7+4」は「4から7に3をあげれば10になって、4は3あげたから1になるから、合わせて11」というような、「やりやすい足し算」的なものも一年生でやり始めたのだが、そこから途端にできてたはずの足し算も逆にできなくなってしまったToT(計算がめちゃくちゃになってしまった)

無論これは、その言わんとしている事(大きく見ればやはり概念)を理解できなかった、というだけの話かもしれない。
「これはいかん」と思って、教科書の「概念」を教え直して事なきを得たのであるが、初めて我が子を現代教育の現場に投じたものとして、何か悶々としたものを感じたものである。
落ち着いて考えると、これは「概念を教える時は、生兵法では逆に怪我をする」とでもいうべき類の話だろう。
概念を教える時はちゃんと教え切るべきだろうし、一方では学校はカリキュラムを推し進めなければならないだろうし、というところでのジレンマであろう。(おそらく昔からあるジレンマであろう。かといって「授業についていけない人は塾行ってね」というのも根本的に違うだろう。)
※決して現場を批判するものではない。

現場でのプロパティとしては、更に「本人のやる気」が付け加わってくる訳であるから、より複雑なのだろうな。(無論本人が聞く耳を持たないのであれば、教える側も嫌になるだろう。(現代の教育現場ではそれは明示的には言えない?のだろうが。そうすると「ちゃんと教えましたけど」という、ウワベだけの論争になっていく、という。。)

話が飛躍してしまったが、純粋に「知」「智慧」を求める本道としては、時代に関わらず、現場に関わらず、正に純粋な抽象概念の獲得ができれば良いのだろう。(数多の時代的影響、現場的影響による悪条件でしか教育を受けられなかったのに関わらず、立派に学問を大成したした人の話を聞くと泣けてくる。裏を返すと、本道においては時代的影響や現場的影響は些末な事柄なのである。(よく言われる通り、他と比較していてはキリがない。))






2021年2月11日木曜日

言葉の発生について

子供が「なんで〇〇は〇〇って言うのか?」と聞くことがある。

何かで、お母さんであれば太陽の「カッカッ」とかから
「カァ」さんになったとか知っていたので説明できるが
「なんで『なんで』は『なんで』って言うの?」などの
質問になってくると分からなくなってくる。

母さんの「カッカッ」は擬態語・擬音語をルーツとする
言葉群の分類とかになるのだろうか。
(言葉の語源を研究する専門家ではないので詳しいことは
 分からないが。)

「なんで『なんで』は『なんで』って言うの?」という問いに
分からないなりにひねり出した答えは
「誰かが何かを誰か別の人に聞く時に『なに』という音を
発していて、それを見聞きした人が『なるほど、何かを人に聞く時は
こう言えば良いのだな』と思ってその人も『なに』を使うようになった。
またそれを聞いた人が使うようになって、気がついたらみんなが
『なに』を使うようになったから、『なんで』は『なんで』って言う
のである。」
ということである。

つまり自然発生+デファクトスタンダード化ルーツ語群である。

デファクトスタンダード化であれば、例えば誰かが「今日から
りんごは『あああ』と呼ぶことにする」と言って、もしも
日本全国民の人をりんごのことを『あああ』と言わせることに
成功したのだとしたらりんごの新しい呼び方は『あああ』に変更に
なるのであろう。

自然発生については、それではそのさらに大本は何か?となってくる
のであるが、ルーツをたどれるものもあるだろうし、いろいろなルーツが
あって「これだ」というものには到達できなかったりと、
多分にデファクトスタンダードの要素を持っていると思われるのである。

単語に限らず、それこそ文法に至っては、ルーツを辿るとかの話ではなくて
「大和民族は自然にSVOの文法になっていった」とかになるわけである。

これは広く言ってしまえば有機体の自己完結性で出来上がった、と言える。
例えば人とか動物になぜ足があるか?についても理由は色々と考えられて
ルーツを辿る研究もあるのだが、言葉も人という種別が有機体として
人から人へ継承して作っていったものの一部なのである。

よく言われる通り子供の質問とは本質である。

2021年2月10日水曜日

挨拶も会話ならば

挨拶も会話のうちというならば、
私はネコと会話できてるかもしれない。

意思疎通、コミュニケーションも
会話のうちというならば、
私はネコと会話できてるかもしれない。

2020年10月22日木曜日

いきなり「ミニバームロール」について

突然だがブルボンのお菓子「ミニバームロール」について。

子供の頃から何気なく食べていたので、意識にさえ
のぼらなかったが、最近久しぶりに食べたら、
このお菓子は一体なんなんだろうか?と急に
意識してしまった。

何菓子なのだろうか?
和菓子なのだろうか?洋菓子なのだろうか?
周りを覆っているのはチョコなのだろうか?
いや、「ホワイトクリーム」とあり、原材料にも
チョコは使われていない。なんとも「和的」な
「昭和的」なものと言える。

まぁうまいからいいか、という結論。
現代の子供たちも無意識のうちから食べて、
大人になってから、ふと「そういえば、この
お菓子はなんなんだ?」と思ってくれれば
それで良いと思う。